鼻嗤い
議員討論会を見ていて不快感を覚えることがある。
議員たちは他人の話の途中でもお構いなしに自分の意見をねじ込んでくる。一国の代表ともある人たちが、なんとも見苦しい。
「人の話は最後まで黙って聞きましょう」と幼稚園、保育園で学ばなかったのか。
自分の親や周囲の大人は教えてくれなかったのか、と時々思う。
何より不快に感じたのは、人の意見を「フン」と鼻で嗤(わら)う態度である。
人が一所懸命に説明しているのに、なぜ「フン」と嗤うのか。その人はそんなに偉いのか。
人を見下すようなその態度に強烈な不快感を覚えたのだ。
人を見下す態度を「マウンティング」と言うらしい。
もう少し詳しく言うと、人間関係においては自分の方が優位とアピールしたいがゆえに、自分が上と一方的に格付けし、それを主張する行為を指す。
自分はそれで満足かもしれないが、傍からみたら極めてみっともない行為だ。
だが、ひょっとしたら私も気付かないうちにマウンティングをしているのではないだろうか?
例えば、目で見える事で他人を評価するとか。学歴、収入、地位、知名度、顔立ち、家、車、服とかとか。
「本当に大切なものって何?」と聞かれれば、健康だの、愛だの、優しさだのって目に見えないモノを答えるくせに。
それこそ鼻嗤いだ「フン」。
比較の中で生きること
では、なぜ人はマウンティングをするのだろうか?
そもそもマウンティングは自分一人では成立しない。他人と比較して生まれるものだ。
つまりマウンティングは、差別的な比較の中でこそ成り立つのだ。
見下した人と比較して勝った気分になることで幸せと感じる。いや、自分に感じ込ませている。
しかし比較の中で生きていくのは息苦しいものである。
ならばいっその事、自分は自分の考えで生き、自分なりの幸せを模索してみたらどうだろうか。
本当に自分が好きなことは何か。幸せだと感じる瞬間はどんな時か。
人から見た自分と、本当になりたい自分は異なる。人から見た自分を意識することは、人の人生を送ることであり、本来の自分自身の人生を歩んでいるとは違う時間だと思う。
澄んだ世界へ
さて、話は議員討論会に戻す。
政治の世界がどんなものかまったく分からないが、妙にドロドロしたドス黒い何かに巻かれているようなイメージがある。
話を被せてしまうほどの熱量はわかるが、この国に住むたくさんの人たちの未来を、マウンティング意識で決めて欲しくない。
未来は、若者たちが思い切りドブーンと飛び込めるよう、明るい希望に満ちた、大きく美しく澄んだ世界であるよう願っている。